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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2014年02月28日

往事夢裡花落淚

一片青山入座,半盞秋水烹茶。默愛。
只是淺淺的在心中微笑,說不出怎樣的一份大喜大悲。也許我是冷漠的,愛把自己置身於紅塵之外,莫再傷感聚離別散。能否像書中表述的那樣,執一把拂塵,台灣集運到香港在菩提飛絮下悠然品嘗自己親手泡的茶,也許不是碧螺春、雀舌、月光白那樣名貴茶,只需是捧乾淨的新茶。看遠山黛墨,再也無關風光雪月。我不是愛做作的人,可蹉跎的社會又迫使我們擁有一顆向上攀爬的欲念,這是矛盾的。
微雨燕雙飛的季節,紅隨步,月中庭。冥思細想些無關痛癢的瑣事,在歲月之中,時間之外,我偏執著。有女若茶,能比作茶的女子都是很優秀的,我不敢說自己是多麼優秀,是賽李清照三分愁般的苦丁,還是勝蔡文姬七分情般的蘭芷。但我卻相信自己也是一品茶,也終有一盞般配的茶具,也許不是紫沙壺、青花盞、木魚石杯,卻也獨具****。
再也不喜歡關心別人的事情,去瑣碎別人的喜怒哀樂,徒留自己一身憂愁。看那些嘰嘰喳喳的女孩子,心中是不大喜歡的,卻又苦笑幾分,其實那些年,我又何嘗不是。看著離別時淚不成泣的鮫人,康泰領隊曾幾何時我也哭的花枝亂顫。歲月如茶,濃郁淺傷。心靜如水,偶爾驚起漣漪,不過也馬上恢復平靜。可惜沒有落花,無法成全我的水月鏡花,只如莊生夢蝶般徒留一場虛歎。
品茶之道又如參禪之道,那樣安之若素的境界又怎是我這浮沉之人可達到的。曾寫道:若有來生,你我願為一棵生長在半山腰的茶樹,既可以遠離紅塵,又免于高處不勝寒,你為枝我為葉,枝葉連根,此生不離。
綠時,是我突然萌發出的一個詞。有種陽光透過葉縫灑在臉上的溫暖,顫動著如翼的睫毛。晴好,在心中多默念上幾句便會滿心歡喜,當然有些無以言表。妙玉愛在梅花上取雪泡茶,我想菩提之下的雪應該更純淨吧,念:菩提本無樹,明鏡亦非台。本來無一物,何處惹塵埃。
我已無言於所謂的癡情愛恨,因為在如此年華的我們更多的是滑稽可笑。我相信姻緣是那種四目相對時面紅心跳的感覺,是于千萬人中驀然回首的茫然,是無故獨上西樓的惆悵。那是冥冥一種的一定數,多麼美好而神聖。而如今那些夾雜著利益與權衡的感情,我既能理解又難以接受的那些所謂你情我願的交往遊戲,慶倖如今我能坦然面對。我也真非善男信女,以多麼高就的姿態去指點,這又是矛盾的,無以言喻。
輕抿一口茶,卻道不盡其中滋味。若灑在人心中一盞茶,是否可散盡一些污濁,我知道這不過是囈語。有女若茶,僅在小心翼翼維護著自己那卑微的自尊與自信。一種情愫,牛欄牌奶粉奈我何去何從,水月鏡花,不知今昔何昔。
往事夢裡花落淚,誰記那粉黛梨漩,欠一聲囈語輕哼:知君不重胭脂色,為我獨留霜雪魂。
  


Posted by weetears at 17:17Comments(0)牛欄牌

2014年01月08日

田舎に住んでいると移動方法は車だ

地方都市に住んでいると高齢者ドライバーが目に入る。軽自動車で移動する高齢者夫婦。病院、銀行、郵便局、ショッピング、スーパー等の駐車場には彼らの車がやたらと目立つ。その中には軽トラを運転する女性高齢者ドライバーも珍しくない。荷台には買物袋をゴムで縛り、助手席に高齢者の夫を載せてくる女性高齢ドライバーもいる異性交友。至って彼らは元気。孫の送迎、留守番、少し離れて暮らす息子夫婦や娘夫婦の助手として体は休まる暇はない。

田舎に住んでいると移動方法は車だ。都会のように電車やバスは限られた路線にしか運行しない。そもそも行きたい場所に行くためにもバスが有れば便利なのだが毎年の様に赤字になるという悪循環が続いている。だから車は必需品。それも大きな車でなく、燃費の良い軽自動車。元兼業農家さんの家に行くと複数の軽トラもある。狭い道も軽なら大丈夫。運転のテクニックも現役には負けない。日昼、車が少ないのどかな道路では、エンジンを掛け車同士止まっての日常会話在線交友。都会でなら信じられない光景が田舎にはある。

今、制度で高齢者ドライバーに対して自主的に免許証の返上を求める制度がある。私が住んでいる自治体でもあるようだ。だが地方都市といっても広い。バスの運行路線も少なく、移動時間も掛かる。それが嫌で車は必需品になる。それと同時に車の性能も格段に改善された。前方不注意で追突防止の装置が着いた車の宣伝で益々、軽自動車は増える。それで価格も抑えられ、高齢者にとっては便利な車なのだ。

正月三箇日に誕生日を迎えた父も高齢者の1人。毎日、車を運転して母の使いや病院、レンタル畑に通っている。2歳差の母も1ヶ月後には跡を追うように誕生日がやってくる。その暇な父も免許更新手続きのためにドライバースクールに行き審査を受けに行く。そこでは幾つかの反射機能に目視で合格すれば、再び免許センターでその手続きが出来る。運転免許所持者が少なくなっている自動車学校では副業だ。

その父も今日、その自動車学校に行ってテストを受ける。正月前から張りきり今準備をしている。そこにも愛用の軽自動車で行く。バス路線もない場所に学校がある。もし不合格ならと言うと牛欄牌回收、体力自慢をする。だが年々体力は落ちていると家族の誰かが言うと怒る。これが実情だ。  


Posted by weetears at 13:19Comments(0)牛欄牌

2013年12月17日

〈冗談じゃない

昭和30年代後半の中学生には、体育の授業に柔道があった。
入学時の身長が138・8センチだから柔道着はもっとも小さいサイズだった。
そこから年に10センチずつ伸びる「快進撃」が始まるのだが、
この頃はまだまだチビで牛欄牌奶粉、それに加えて痩せ具合も半端ではなかった。
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柔道の授業が始まってしばらくすると、
初のクラス内「紅白勝抜き戦」があった。
クラスには街の道場に通う経験者が何人かいて、
大柄で経験者のAくんは次々に勝ち進み、オイオイと思うちに僕の番がきた。

以下は心の声である。
〈冗談じゃない。これは先生の「企画」の失敗だ。
もっとオレと似たような、弱っちいとやらせてくれよ。
こんな筋肉バカとやれってかい!? 先生のボンクラ!!!〉

Aくんとは、まるでおとなと子ども牛欄牌問題奶粉
彼が力強くこちらの衿をとりにきたので、負けずに僕も掴んだ。
おまえの衿は掴んだら絶対に離さない。そう思った。

果たしてAくん、すばやい身のこなしで、ひ弱なチビを、
会心の大外刈りで投げた‥‥はずだった。
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「投げをかけられたら、すぐに受け身の姿勢をとること。
でないとケガをするからな」
体育の先生は口うるさく、そう言っていた。

だが、あっというまに投げられる身としてはそうはいかない。
〈こんな野郎に、ただ、投げられてたまるか。
オレが倒れるときは、オマエも一緒だぜ。わかってるか、筋肉バカ!〉

弧を描いて投げられながら、Aくんの衿を掴んだ手は離さず、
それどころか引き寄せるように投げられたために、
その大柄な体が僕の体の正面に重なるように体重をかけて倒れこんだ。

一瞬、息ができなかった。当然、先生には叱られた。
「バカ、受け身をちゃんとしろと言っただろう」

翌日も痛みが続いたので自転車で接骨院に湿布薬をもらいに行くと、
「湿布どころじゃない牛欄牌奶粉。鎖骨にヒビが入って折れかかっている。
骨折のほうが早く治るのだがな。自転車は置いて帰れ。
あとで母ちゃんが取りにくればいい」
柔道家の先生はノンビリとした口調でそう言った。

結局、一学期中、ギプスと肩から吊るす式の包帯にお世話になり、
たちまち胸と手の部分は汗疹(あせも)だらけになった。  


Posted by weetears at 15:04Comments(0)牛欄牌

2013年12月05日

時間の余裕は

ご近所ブログの中に書かれていた、ある表現。
とても良いので、思わずそこで立ち止まった。
何度もそのセンテンスを読んだ。
上手い表現をされているなあ、と感心し防水防塵保護膜、即座に、インプットされ、そのまま使ってしまいそうな悪い予感。
著作権には、うるさい?

表現が的確だったのだ。
文学的だとか、文章の才能がどうとか、そういう面からのものではなく、
ノーテンキなわたしの性格とは、真逆のこのブロガーさん、
こういう発想なのか、と、彼女の脳内システムを垣間見た気がした。

と、もったいをつけないで、その表現をご紹介いたします。
といっても、そのまま引用ではなく、アタマに残っている部分なので、細かいところは違うかも知れないが。


「時間の余裕は、私から優先順序をつける能力を奪う」
てなかんじのことが、書かれていた。
次から次から気になることを発見し、完了しないままに、次のすべきことに手をつける。
先先に、気が走り、完璧主義のこのブロガーさんらしい行動だ。
用事があふれ出してしまい、混乱、かえってくたびれる。

わたしは、時間の余裕があると、
ぼーーーっと(人から見ればすべてを無駄に※)、自分がしたいことをして使いきってしまう。
時間がある時にやっつけよう、と、とってある(先延ばしにしている)用事すら、しない。
で、自己嫌悪に陥る。
で、今度こそ、次回に・・・と、また先延ばし。
延々、その繰り返し。
本当に本当に火がつかないと、やり始めない。


※人にとって無駄と思われるが、自分は楽しいこと、
たとえば、繰り返し繰り返し、同じコト、モノを作っては壊し、作っては壊し、しても。

人によって、義務感にとらわれるか、自主的に好き放題やるか、動機も違うかも知れない。
性格の違いだと思われる。


・・・

わたしの知人で、よく、「退屈でした」とおっしゃる方がおられるが、
わたしは、めったに退屈はしない。
退屈と感じない。
退屈とほぼ同じような心境であっても、「退屈」という表現が適しない。
それは退屈なのではなく、「面白くない」「つまらない」「くだらない」「興味をそそられない」
「見る、聞く、行動するに値しない」「虚しい、時間の無駄」「充実しない時間」。

わたしにとっての「退屈」は、
「時間を持て余す」「なにもすることがない」である。
「間延びする」「時間を無駄に使っている」は、退屈ではなく、退屈を通り越して、「不快な後悔」にも近い感覚。


たとえば、時間が余ったとする。
それは、退屈ではなく、細切れの時間が生み出される。貴重な余り時間を使い、別の行動をする時間。
ただ、余った時間内に収まらなくてオーバーし、ストレスが溜まる場合もあるので、要注意。


心底、退屈な時は、どうするか?
なにをするか、考える。
すると、退屈時間は、あっという間になくなる。
たとえ、すべての時間を、「なにをするか?」を考えて使い切り、
「なにもすることがない」あるいは「思いついたが、今からでは、もう遅い」と結論に達したとしても。

眉間にシワを寄せ、なにも行動しない、ステキな哲学者になれるかも知れない。


・・・

考える時間のほうが長くて、行動に移す時間がほんのちょっとだったとしたら・・・
(これは、わたしがよく陥るパターンなのだが)
かえってカリカリして、負の感情を引き起こす牛欄牌奶粉
だったら、なにも考えなくて、ぼーっとしているほうが、精神衛生上、よいかも知れない。

退屈を紛らわせるために、何気なくしたことが、意外にツボにはまって病みつきになることもある。
良いケースならよいが、これは、良くないケースもある。
社会の病理と紙一重のリスクもある。


わたしは、退屈しのぎに、暇つぶしにやったことで、どんどん時間を浪費していくと、あとで、虚無感に襲われる。
退屈と虚無感。どっちもどっち?
似ているのか?
身体に良くない質の悪い脂こてこてのケーキを、たっぷり食べすぎたような後味の悪さを覚える。
わたしにとって、退屈は敵だ。


なにもすることがない。
これは、幸せととらえるか、不幸ととらえるか。
生活状況にもよるだろう。
したいことがあるが、できなくて、なにもすることがないのか、
したいことは、みんなやってしまって、なにもすることがないのか。

傍らにすべきことが山のようにあるのに、やる気がしない、なんて場合もある。
山のように服があるのに、「着る服がない」、と嘆くケースと似ている?

・・・

癌が新たにまた見つかったという、樹木希林さんが言っていた。

「人に迷惑をかけないで生きていきたい」と。

これには、唸った。

わたしもまったく同感である。
わたしは、まだ死ぬには若いが、終活を視野に入れている。
自分の人生を閉じる方向に、目が向いている。
精神的に病んでいるとか、ウツとか、そういう病理を抱えた心理ではない。
自分だけの楽しみであっても、山のような不要品の処理や、大事なモノや、事務的な申し送り事項、
などなど、それらをやっておきたい。
そして、自分ができる間に、できることをしたいと考える。
しかも、自分の都合ではなく、相手の都合を考慮して。
例えば、子育てバックアップや、介護補助。
あくまでも、ヘルプ側であるところが、卑怯な発想であるが。
前面に出て、直接、中心的役割を担おうとしないところが、労働までもケチる、どケチの、わたしらしいところ。
渦中になると、そんな贅沢わがままは、言ってられなくなるが。

時間は待ってくれない牛欄牌回收
子供はどんどん大きくなるし、親は、どんどん老いていく。
関わっておきたかった・・・なんて後で後悔しても、あとの祭り。
仕事は、代理の人に頼めても、個人の人生は、かけがえがない。
自分の人生は自分のものだから、と、一人で完結、終わってしまう前に、
少しでも役に立たないと、死ぬにも死に切れない。

・・・

と、考えていると、退屈しているヒマがない。
それこそ、優先順序の付け方が、わからなくなりそうだ。

振り回され方、捉え方が、性格や考え方によって多少は違っても、
状況や、表面に現れる行動は個人差があっても、
底流の真理というものは、共通するものがあると感じる。  


Posted by weetears at 16:47Comments(0)牛欄牌

2013年10月11日

焼津あ

横浜から上海までのクルーズ船は、昨年地中海で海難事故を起こしたコスタ・クルーズの船で、所有船の中では小さい方だが約75000トンある。海難事故を起こしたのは114000トンもあった。
 かつて沖縄に行く時に乗った那覇丸は1万トン弱で、時化に遭ってひどく揺れたが、その時、2万トン以上あれば揺れないと聞いた。
 私は船には弱いので、75000トンあれば身體脂肪比例、まあ大船に乗った気持ちになれると思ったのである。

 実際、台風の影響もあって海上には白波が立っていた。過去の経験からすれば、大揺れではないが波静かというわけでもない。1万トン級の船ならおそらくローリングとピッチングで多少の船酔いはしたのではないかと思う。
 75000トンならビクともしないかと思ったが、意外と揺れは感じる。普段はそれほど意識しないが、通路を歩いていると真っ直ぐに行かないのである。それも何度か同じことを経験して揺れのせいだと気づくくらいなので、意識に上るほどの揺れ方ではない。

 一番わかりやすいのが飲み物で、揺れとともに水面が動く。それでも、チャンップンチャップン言ったり、撥ねて零れるほどではない。食事の時に、座っていて体が僅かに傾くのがわかるくらい。
 ところがベッドに横になって目を瞑ると、意外と揺れがわかる。わずかな揺れでも感じることができ、ローリングとピッチングの違いも区別できる。耳を澄ませば船体に当たる波の音も聞き分けられる。
 但し、これをあまり意識しだすと船酔いする。神経はあまり研ぎ澄まさない方がいい。

 総じて言えば船は揺れない。揺れのうちに入らない帶氧運動。読書もできるしパソコンを打っていても平気。ただ、iPodを弄っていた連れ合いが少し酔った。
 以前、仕事で釣り船に乗ったことがある。伊豆半島だったが外海の上に漁船なので小さい。浮きをじっと見つめていたら吐き気を催すほどに酔ってしまった。
 つまり私には釣りは向かないのだが、揺れている時に小さな1点をじっと見つめていると酔う。連れ合いも同じで、iPodの小さな文字をじっと見つめているうちに酔ってしまったらしい。本を読んでいる時は視線は動いていて、1点を見つめていない。

 船旅は快適だった。
 夕方、横浜港の大桟橋を出港後、三浦半島や房総半島を見ながら浦賀水道を抜けて外海に出る。伊豆半島と大島の間に向かうころ、レストランで夕食を摂り、ショーを見て、ラウンジのピアノとヴァイオリンの演奏を聴く居屋按揭
 夜も更けてデッキに上がると満天の星。カシオペア座、アンドロメダ座、はくちょう座、天の川を挟んでこと座のベガとわし座のアルタイルも大きい。

 伊豆半島に見える光の帯は下田か?
 石廊崎を回ると水平線のかなたに白い雲の帯が続く。おそらくは静岡・焼津あたりの町の明かりが雲に映っているのだろう。  


Posted by weetears at 10:45Comments(0)牛欄牌

2013年07月12日

空は青いし



風がすごく強くて
飛ばされそうな時もありましたが

空は青いし
コースはよいし


キャディーさんは笑顔がステキで
キビキビ仕事してくれるし

(でもお互いお菓子の食べすぎには注意しましょうね…)

食事も美味しいし

(完全自画自賛??)

スコアはともかく
楽しくプレーできました


西6番の手前の桜。
奥に見えるのが平尾CCクラブハウスです!  


Posted by weetears at 17:52Comments(0)牛欄牌