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2014年03月17日

渲染這一季的溫婉柔情

繁華的喧囂漸漸遠去,我拾集起那曾經美好的記憶,滴滴濃情……

倚欄賞景,春情如畫綿延的過往,追隨著綠的影子漫遊,聆聽風兒彈奏青曲,曲曲音符柔美歡快跳躍,滑過碧清的山泉,水簾的青洞,跳動在碧綠鄉野,翠綠的森林,這阡阡陌上的籬笆碎影,這景色秀美怡人的田園詩境,讓你我深深地沉醉在這詩情婉約的意境中默念吟誦,漫步在阡阡陌上的田壟,那醉眼的秧青色隨風飄散,一點嫣紅的朵兒含羞輕輕綻開,簇擁著、擠著、鬧著,誰也不讓著誰,不一會綻放一片,吵醒了沉睡的草兒,nu skin 如新瘋染了青青的草地,你我沉溺在這藍天白雲,秀水靈山,春花飛舞的一季,踏進青青的陌上吟詩作賦,盡情的放縱自我。

踱步在青的籬下遐想,水花濺舞,風搖竹翠,柳蔭如煙,那蜜蜂豔蝶逐花起舞,水花漫過石橋,窈窕的少女舞起,瓣瓣青葉搖落一地,拂袖間曼妙誘人,淡雅迷情,詩苑婉約,輕弦婉曲,一絲靈動扣心弦,演繹著一場江南華麗豔景的詩篇,叩開了這春縷縷紛飛的思緒,觸動著柔柔陌上的心扉。

暮然回首,讀一曲往事如飄煙,渡一舟城南的舊事戀情,飄浮在煙波浩渺的深處,輕輕的淌過歲月的蹉跎,這柳暗花明春又深,朦朧的翠影花瓣散落一地,這花絮如彩墨揮毫,潑灑在思春的長廊裡作絹,朦朧間游離在花絮飛揚的柳巷,這碎碎影影醉步闌珊,縷縷淡香漸漸彌散,我在這唐風宋韻清詞,江南的煙波,青幽古巷,祠亭的碑文中尋覓,一書墨香古卷鋪長廊,品文嚼字,醉了騷客詩成山。

倚在思的門欄裡,幾隻畫眉鳥枝上偷情,抖落的花絮輕滑眉梢,一聲輕吟的淺唱,一曲童年的春歌穿過流年的滄桑,歲月如詩沉醉在船頭,阡阡的陌上柳葉垂掛,柳濃花豔,鶯鶯豔舞,輕摟著你纖細的腰肢,如新集團緩步在綠蔭濃情的小道,讓人賞心悅目……

蘸一筆山澗的彩墨盡情揮毫,小橋流水霧樓臺,將那江南美色繪成綿延的錦絹;

書一景青雲流水綠影婉約,青柳濃匝,潑墨成畫,詩成蔭,渲染這一季的溫婉柔情;

倚著春的門楣相思,秀一段文字的熏香,一箋心花水墨中綻放,讓似水的柔情漫過心房;

尋一抹歲月的纏綿,香港如新依戀在季節的轉角,花香漫溢,這春,南國的炊煙嫋嫋,青青籬笆風中舞,那阡阡的陌上叩人心扉,讓人鬧心。
  


Posted by weetears at 18:51Comments(0)記事nuskin

2014年03月04日

讓最後的二十年別留下殘缺的記憶!

生命的諾言,我的笑,偽裝不了坎坷的心靈!時間在指尖溜走,瞬間,我的容顏已滄桑,因為我走進了成人的殿堂!生命承載著多少等待?前方的彼岸,有著我的承諾,我的笑,足以!

迷離的黑夜喧囂著你的無情,裝飾著你的陰暗,等待的我,鑽石能量水濾心並不是對你陰霾的恐懼,因為我對自己的生命有個諾言,我會笑著去迎接黎明的到來,那只是為了更好的去挑戰下個天亮的淘汰,只是有我苦澀的笑!

曾經以為生命是那麼夯實,卻又發現它原本不屬於自己,等待著把並不是厚重又不燦爛的它變成空白,讓這段二十年的舞臺劇落下帷幕!可惜,可惜那只是一個遙遠而不可觸及的夢,既然如此,為何要讓諾言成為滿紙的荒唐?為何要讓等待的笑化為苦澀的淚?

把滿地的幸酸讓生命的諾言埋葬在二十歲年華的冬季,香港如新把滿天的無奈讓生命的微笑淹沒在青春年華的季節,期望的等待,卻又夾雜著彷徨而又孤寂的身影,只是為了生命曾經許下的諾言,留下空白的微笑!不是嗎?

即使有著無數的夢,可破碎的心任需陌生的笑去把它癒合,墮落的不可以是漸漸癒合的心,更沒有其他的來讓我揮霍,沒有墮落的資本,這便足夠了!與其讓我來把這前二十年變成空白,倒不如帶上許下的諾言,掛上久違的笑,去勾勒後二十年的燦爛!讓最後的二十年別留下殘缺的記憶!

生命到底承載著多少等待?nu skin 如新書寫著我的諾言,堅定著我的笑!
  


Posted by weetears at 15:45Comments(0)nuskin

2014年02月28日

往事夢裡花落淚

一片青山入座,半盞秋水烹茶。默愛。
只是淺淺的在心中微笑,說不出怎樣的一份大喜大悲。也許我是冷漠的,愛把自己置身於紅塵之外,莫再傷感聚離別散。能否像書中表述的那樣,執一把拂塵,台灣集運到香港在菩提飛絮下悠然品嘗自己親手泡的茶,也許不是碧螺春、雀舌、月光白那樣名貴茶,只需是捧乾淨的新茶。看遠山黛墨,再也無關風光雪月。我不是愛做作的人,可蹉跎的社會又迫使我們擁有一顆向上攀爬的欲念,這是矛盾的。
微雨燕雙飛的季節,紅隨步,月中庭。冥思細想些無關痛癢的瑣事,在歲月之中,時間之外,我偏執著。有女若茶,能比作茶的女子都是很優秀的,我不敢說自己是多麼優秀,是賽李清照三分愁般的苦丁,還是勝蔡文姬七分情般的蘭芷。但我卻相信自己也是一品茶,也終有一盞般配的茶具,也許不是紫沙壺、青花盞、木魚石杯,卻也獨具****。
再也不喜歡關心別人的事情,去瑣碎別人的喜怒哀樂,徒留自己一身憂愁。看那些嘰嘰喳喳的女孩子,心中是不大喜歡的,卻又苦笑幾分,其實那些年,我又何嘗不是。看著離別時淚不成泣的鮫人,康泰領隊曾幾何時我也哭的花枝亂顫。歲月如茶,濃郁淺傷。心靜如水,偶爾驚起漣漪,不過也馬上恢復平靜。可惜沒有落花,無法成全我的水月鏡花,只如莊生夢蝶般徒留一場虛歎。
品茶之道又如參禪之道,那樣安之若素的境界又怎是我這浮沉之人可達到的。曾寫道:若有來生,你我願為一棵生長在半山腰的茶樹,既可以遠離紅塵,又免于高處不勝寒,你為枝我為葉,枝葉連根,此生不離。
綠時,是我突然萌發出的一個詞。有種陽光透過葉縫灑在臉上的溫暖,顫動著如翼的睫毛。晴好,在心中多默念上幾句便會滿心歡喜,當然有些無以言表。妙玉愛在梅花上取雪泡茶,我想菩提之下的雪應該更純淨吧,念:菩提本無樹,明鏡亦非台。本來無一物,何處惹塵埃。
我已無言於所謂的癡情愛恨,因為在如此年華的我們更多的是滑稽可笑。我相信姻緣是那種四目相對時面紅心跳的感覺,是于千萬人中驀然回首的茫然,是無故獨上西樓的惆悵。那是冥冥一種的一定數,多麼美好而神聖。而如今那些夾雜著利益與權衡的感情,我既能理解又難以接受的那些所謂你情我願的交往遊戲,慶倖如今我能坦然面對。我也真非善男信女,以多麼高就的姿態去指點,這又是矛盾的,無以言喻。
輕抿一口茶,卻道不盡其中滋味。若灑在人心中一盞茶,是否可散盡一些污濁,我知道這不過是囈語。有女若茶,僅在小心翼翼維護著自己那卑微的自尊與自信。一種情愫,牛欄牌奶粉奈我何去何從,水月鏡花,不知今昔何昔。
往事夢裡花落淚,誰記那粉黛梨漩,欠一聲囈語輕哼:知君不重胭脂色,為我獨留霜雪魂。
  


Posted by weetears at 17:17Comments(0)牛欄牌

2014年02月24日

再見,那就再也不見

有些感情我們是終究得不到的,你看了那麼多的故事,那麼多的悲傷,快樂。簡單的故事就像你簡單的心情。如新集團總是在飄忽不定,最後只剩下了複雜與沉重。

不小了,該長大了,我這輩子最感激的就是我的父母,其次就是我那為數不多的哥們。談什麼愛情?我根本不信。靜待緣分吧。

有些事,懂了,那就牢牢的記在心底吧。康泰領隊不要等到下次受傷了才又想起。何必作踐自己呢。

我不太喜歡說話,卻用文字記錄下我的心情。高興的時候我也會和你們開開玩笑,不高興了我不會,也不想找你們訴苦,每個人都活著不易,我為何還要去給他人添加包袱。

當然,有人找我傾訴我是高興的,因為那說明她心裡有我。

時光竟遷,當年天真的我已變得如此複雜。 時間就像慢性毒藥,停得越久便越疼痛難忍。

生活本就不易,我們為何還要如此沉重。那些說過的話,我就只當是玩笑了,香港如新集團說者無心,我又何必認真。

你若快樂,我便安好。

再見,那就再也不見
  


Posted by weetears at 11:02Comments(0)nuskin

2014年02月12日

三階に到着する

私の家は丘の上に建っているので、地上に当たる庭に面した階から数えると、全部で四階になる。玄関、通り側からすると地上階は半地下。物置および大工室。住居部分は三階建て。豪邸なのではなく、単に縦長のシティーハウス。

たとえば、プラスのネジ回しnuskin 如新
三階の工具箱か半地下の大工室の引き出しのいずれかにある。
これは確実。で、記憶を振り絞る。前回、確か半地下で使ったような使わなかったような使ったような気がする。移動距離の短い、一階から半地下に賭ける。大工室の引き出しを開ける。ない。半地下から三階まで行かなければならないし、三階から一階のサロンに戻ってこなければならない。家全体のど真ん中の螺旋階段をへこへこと上ったり下りたり・・・。
1900年築の古い家だから天井が高い。つまり、一階の高さが新しい家より高い。

三階に到着する。三階のホールの書棚に、「あれっ、おぉーーー、この本、ここにあったぁーーー、うっしっしぃー」と手に取る。ちらちらページを捲る。「おぉーーー、再読再読っ!」如新集團。ルンルンして一階のサロンに下りてくる。「あっ、ネジ回し」となる。

カミサン「眼鏡眼鏡眼鏡」
私「三階の息子の部屋で見たよ」
カミサン たったったったったっ
下りてくる。
息子の部屋の枕カバーとかを持っている。
「あっ、眼鏡っ」

そうそう、段々ね、上ったのはいいけれど、なにを取りにきたのか覚えてない時が増えてきている康泰自由行。毎日、相当、尋常ではないくらいに「指先を刺激している」のに・・・。

忘れたことを、まだ、覚えているうちに、そろそろ、平屋かしらぁー?  


Posted by weetears at 16:34Comments(0)nuskin

2014年01月23日

旅行と言えば

CNN News を見ていると「絶滅危惧種」となった”旅のアイテム10選”なるものがあった。

そこに挙げられているのは、絵葉書、折りたたみ地図、
旅行ガイドブックなどだがnuskin
今となっては、それらはスマホで事(こと)足りるようになっている。
そのため、完全に絶滅している訳ではないが、以前ほどの需要はなくなっているのは確か。

他に挙げられているものを見ると、
スライド写真、アナログ型の目覚まし時計、写真アルバム、
キャリーのついていないスーツケース。
これらは、単体では見かけなくなった。まさに絶滅種に近いと言えそうだ。

トラベラーズチェックは、クレジットカードがその役割をになっているため、
もうすでに絶滅種かも知れない。


旅行と言えば、フランスにある世界遺産のモンサンミッシェルは、
今や旅行先として人気ナンバーワンかも知れない。
古くからカトリックの聖地になっているが、
もともとは、ケルト人が信仰していたドルイド教の神殿跡に建てられたとも言われる。
ドルイド教は牛欄牌回收、「森や樹木」をおもに信仰の対象としていたと言われる。

このモンサンミッシェルは、
陸地側から見ておよそ森や樹木は見えない。
ところが、
海の中の浅瀬を歩き、海側から見上げると、
豊かな森の上にモンサンミッシェルが建っているのが分かる。

ケルトのドルイド教は5世紀ごろにドルイド教自体が
キリスト教に改宗することによって絶滅したが、
モンサンミッシェルの意外なところにnuskin 如新
「森や樹木」を信仰したドルイド教の面影を見ることができる。


絶滅したと思えるものでも、
形を変えつつも、
その面影(おもかげ)を残しているものかも知れない。  


Posted by weetears at 16:19Comments(0)記事

2014年01月08日

田舎に住んでいると移動方法は車だ

地方都市に住んでいると高齢者ドライバーが目に入る。軽自動車で移動する高齢者夫婦。病院、銀行、郵便局、ショッピング、スーパー等の駐車場には彼らの車がやたらと目立つ。その中には軽トラを運転する女性高齢者ドライバーも珍しくない。荷台には買物袋をゴムで縛り、助手席に高齢者の夫を載せてくる女性高齢ドライバーもいる異性交友。至って彼らは元気。孫の送迎、留守番、少し離れて暮らす息子夫婦や娘夫婦の助手として体は休まる暇はない。

田舎に住んでいると移動方法は車だ。都会のように電車やバスは限られた路線にしか運行しない。そもそも行きたい場所に行くためにもバスが有れば便利なのだが毎年の様に赤字になるという悪循環が続いている。だから車は必需品。それも大きな車でなく、燃費の良い軽自動車。元兼業農家さんの家に行くと複数の軽トラもある。狭い道も軽なら大丈夫。運転のテクニックも現役には負けない。日昼、車が少ないのどかな道路では、エンジンを掛け車同士止まっての日常会話在線交友。都会でなら信じられない光景が田舎にはある。

今、制度で高齢者ドライバーに対して自主的に免許証の返上を求める制度がある。私が住んでいる自治体でもあるようだ。だが地方都市といっても広い。バスの運行路線も少なく、移動時間も掛かる。それが嫌で車は必需品になる。それと同時に車の性能も格段に改善された。前方不注意で追突防止の装置が着いた車の宣伝で益々、軽自動車は増える。それで価格も抑えられ、高齢者にとっては便利な車なのだ。

正月三箇日に誕生日を迎えた父も高齢者の1人。毎日、車を運転して母の使いや病院、レンタル畑に通っている。2歳差の母も1ヶ月後には跡を追うように誕生日がやってくる。その暇な父も免許更新手続きのためにドライバースクールに行き審査を受けに行く。そこでは幾つかの反射機能に目視で合格すれば、再び免許センターでその手続きが出来る。運転免許所持者が少なくなっている自動車学校では副業だ。

その父も今日、その自動車学校に行ってテストを受ける。正月前から張りきり今準備をしている。そこにも愛用の軽自動車で行く。バス路線もない場所に学校がある。もし不合格ならと言うと牛欄牌回收、体力自慢をする。だが年々体力は落ちていると家族の誰かが言うと怒る。これが実情だ。  


Posted by weetears at 13:19Comments(0)牛欄牌

2013年12月17日

〈冗談じゃない

昭和30年代後半の中学生には、体育の授業に柔道があった。
入学時の身長が138・8センチだから柔道着はもっとも小さいサイズだった。
そこから年に10センチずつ伸びる「快進撃」が始まるのだが、
この頃はまだまだチビで牛欄牌奶粉、それに加えて痩せ具合も半端ではなかった。
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柔道の授業が始まってしばらくすると、
初のクラス内「紅白勝抜き戦」があった。
クラスには街の道場に通う経験者が何人かいて、
大柄で経験者のAくんは次々に勝ち進み、オイオイと思うちに僕の番がきた。

以下は心の声である。
〈冗談じゃない。これは先生の「企画」の失敗だ。
もっとオレと似たような、弱っちいとやらせてくれよ。
こんな筋肉バカとやれってかい!? 先生のボンクラ!!!〉

Aくんとは、まるでおとなと子ども牛欄牌問題奶粉
彼が力強くこちらの衿をとりにきたので、負けずに僕も掴んだ。
おまえの衿は掴んだら絶対に離さない。そう思った。

果たしてAくん、すばやい身のこなしで、ひ弱なチビを、
会心の大外刈りで投げた‥‥はずだった。
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「投げをかけられたら、すぐに受け身の姿勢をとること。
でないとケガをするからな」
体育の先生は口うるさく、そう言っていた。

だが、あっというまに投げられる身としてはそうはいかない。
〈こんな野郎に、ただ、投げられてたまるか。
オレが倒れるときは、オマエも一緒だぜ。わかってるか、筋肉バカ!〉

弧を描いて投げられながら、Aくんの衿を掴んだ手は離さず、
それどころか引き寄せるように投げられたために、
その大柄な体が僕の体の正面に重なるように体重をかけて倒れこんだ。

一瞬、息ができなかった。当然、先生には叱られた。
「バカ、受け身をちゃんとしろと言っただろう」

翌日も痛みが続いたので自転車で接骨院に湿布薬をもらいに行くと、
「湿布どころじゃない牛欄牌奶粉。鎖骨にヒビが入って折れかかっている。
骨折のほうが早く治るのだがな。自転車は置いて帰れ。
あとで母ちゃんが取りにくればいい」
柔道家の先生はノンビリとした口調でそう言った。

結局、一学期中、ギプスと肩から吊るす式の包帯にお世話になり、
たちまち胸と手の部分は汗疹(あせも)だらけになった。  


Posted by weetears at 15:04Comments(0)牛欄牌

2013年12月05日

時間の余裕は

ご近所ブログの中に書かれていた、ある表現。
とても良いので、思わずそこで立ち止まった。
何度もそのセンテンスを読んだ。
上手い表現をされているなあ、と感心し防水防塵保護膜、即座に、インプットされ、そのまま使ってしまいそうな悪い予感。
著作権には、うるさい?

表現が的確だったのだ。
文学的だとか、文章の才能がどうとか、そういう面からのものではなく、
ノーテンキなわたしの性格とは、真逆のこのブロガーさん、
こういう発想なのか、と、彼女の脳内システムを垣間見た気がした。

と、もったいをつけないで、その表現をご紹介いたします。
といっても、そのまま引用ではなく、アタマに残っている部分なので、細かいところは違うかも知れないが。


「時間の余裕は、私から優先順序をつける能力を奪う」
てなかんじのことが、書かれていた。
次から次から気になることを発見し、完了しないままに、次のすべきことに手をつける。
先先に、気が走り、完璧主義のこのブロガーさんらしい行動だ。
用事があふれ出してしまい、混乱、かえってくたびれる。

わたしは、時間の余裕があると、
ぼーーーっと(人から見ればすべてを無駄に※)、自分がしたいことをして使いきってしまう。
時間がある時にやっつけよう、と、とってある(先延ばしにしている)用事すら、しない。
で、自己嫌悪に陥る。
で、今度こそ、次回に・・・と、また先延ばし。
延々、その繰り返し。
本当に本当に火がつかないと、やり始めない。


※人にとって無駄と思われるが、自分は楽しいこと、
たとえば、繰り返し繰り返し、同じコト、モノを作っては壊し、作っては壊し、しても。

人によって、義務感にとらわれるか、自主的に好き放題やるか、動機も違うかも知れない。
性格の違いだと思われる。


・・・

わたしの知人で、よく、「退屈でした」とおっしゃる方がおられるが、
わたしは、めったに退屈はしない。
退屈と感じない。
退屈とほぼ同じような心境であっても、「退屈」という表現が適しない。
それは退屈なのではなく、「面白くない」「つまらない」「くだらない」「興味をそそられない」
「見る、聞く、行動するに値しない」「虚しい、時間の無駄」「充実しない時間」。

わたしにとっての「退屈」は、
「時間を持て余す」「なにもすることがない」である。
「間延びする」「時間を無駄に使っている」は、退屈ではなく、退屈を通り越して、「不快な後悔」にも近い感覚。


たとえば、時間が余ったとする。
それは、退屈ではなく、細切れの時間が生み出される。貴重な余り時間を使い、別の行動をする時間。
ただ、余った時間内に収まらなくてオーバーし、ストレスが溜まる場合もあるので、要注意。


心底、退屈な時は、どうするか?
なにをするか、考える。
すると、退屈時間は、あっという間になくなる。
たとえ、すべての時間を、「なにをするか?」を考えて使い切り、
「なにもすることがない」あるいは「思いついたが、今からでは、もう遅い」と結論に達したとしても。

眉間にシワを寄せ、なにも行動しない、ステキな哲学者になれるかも知れない。


・・・

考える時間のほうが長くて、行動に移す時間がほんのちょっとだったとしたら・・・
(これは、わたしがよく陥るパターンなのだが)
かえってカリカリして、負の感情を引き起こす牛欄牌奶粉
だったら、なにも考えなくて、ぼーっとしているほうが、精神衛生上、よいかも知れない。

退屈を紛らわせるために、何気なくしたことが、意外にツボにはまって病みつきになることもある。
良いケースならよいが、これは、良くないケースもある。
社会の病理と紙一重のリスクもある。


わたしは、退屈しのぎに、暇つぶしにやったことで、どんどん時間を浪費していくと、あとで、虚無感に襲われる。
退屈と虚無感。どっちもどっち?
似ているのか?
身体に良くない質の悪い脂こてこてのケーキを、たっぷり食べすぎたような後味の悪さを覚える。
わたしにとって、退屈は敵だ。


なにもすることがない。
これは、幸せととらえるか、不幸ととらえるか。
生活状況にもよるだろう。
したいことがあるが、できなくて、なにもすることがないのか、
したいことは、みんなやってしまって、なにもすることがないのか。

傍らにすべきことが山のようにあるのに、やる気がしない、なんて場合もある。
山のように服があるのに、「着る服がない」、と嘆くケースと似ている?

・・・

癌が新たにまた見つかったという、樹木希林さんが言っていた。

「人に迷惑をかけないで生きていきたい」と。

これには、唸った。

わたしもまったく同感である。
わたしは、まだ死ぬには若いが、終活を視野に入れている。
自分の人生を閉じる方向に、目が向いている。
精神的に病んでいるとか、ウツとか、そういう病理を抱えた心理ではない。
自分だけの楽しみであっても、山のような不要品の処理や、大事なモノや、事務的な申し送り事項、
などなど、それらをやっておきたい。
そして、自分ができる間に、できることをしたいと考える。
しかも、自分の都合ではなく、相手の都合を考慮して。
例えば、子育てバックアップや、介護補助。
あくまでも、ヘルプ側であるところが、卑怯な発想であるが。
前面に出て、直接、中心的役割を担おうとしないところが、労働までもケチる、どケチの、わたしらしいところ。
渦中になると、そんな贅沢わがままは、言ってられなくなるが。

時間は待ってくれない牛欄牌回收
子供はどんどん大きくなるし、親は、どんどん老いていく。
関わっておきたかった・・・なんて後で後悔しても、あとの祭り。
仕事は、代理の人に頼めても、個人の人生は、かけがえがない。
自分の人生は自分のものだから、と、一人で完結、終わってしまう前に、
少しでも役に立たないと、死ぬにも死に切れない。

・・・

と、考えていると、退屈しているヒマがない。
それこそ、優先順序の付け方が、わからなくなりそうだ。

振り回され方、捉え方が、性格や考え方によって多少は違っても、
状況や、表面に現れる行動は個人差があっても、
底流の真理というものは、共通するものがあると感じる。  


Posted by weetears at 16:47Comments(0)牛欄牌

2013年10月11日

焼津あ

横浜から上海までのクルーズ船は、昨年地中海で海難事故を起こしたコスタ・クルーズの船で、所有船の中では小さい方だが約75000トンある。海難事故を起こしたのは114000トンもあった。
 かつて沖縄に行く時に乗った那覇丸は1万トン弱で、時化に遭ってひどく揺れたが、その時、2万トン以上あれば揺れないと聞いた。
 私は船には弱いので、75000トンあれば身體脂肪比例、まあ大船に乗った気持ちになれると思ったのである。

 実際、台風の影響もあって海上には白波が立っていた。過去の経験からすれば、大揺れではないが波静かというわけでもない。1万トン級の船ならおそらくローリングとピッチングで多少の船酔いはしたのではないかと思う。
 75000トンならビクともしないかと思ったが、意外と揺れは感じる。普段はそれほど意識しないが、通路を歩いていると真っ直ぐに行かないのである。それも何度か同じことを経験して揺れのせいだと気づくくらいなので、意識に上るほどの揺れ方ではない。

 一番わかりやすいのが飲み物で、揺れとともに水面が動く。それでも、チャンップンチャップン言ったり、撥ねて零れるほどではない。食事の時に、座っていて体が僅かに傾くのがわかるくらい。
 ところがベッドに横になって目を瞑ると、意外と揺れがわかる。わずかな揺れでも感じることができ、ローリングとピッチングの違いも区別できる。耳を澄ませば船体に当たる波の音も聞き分けられる。
 但し、これをあまり意識しだすと船酔いする。神経はあまり研ぎ澄まさない方がいい。

 総じて言えば船は揺れない。揺れのうちに入らない帶氧運動。読書もできるしパソコンを打っていても平気。ただ、iPodを弄っていた連れ合いが少し酔った。
 以前、仕事で釣り船に乗ったことがある。伊豆半島だったが外海の上に漁船なので小さい。浮きをじっと見つめていたら吐き気を催すほどに酔ってしまった。
 つまり私には釣りは向かないのだが、揺れている時に小さな1点をじっと見つめていると酔う。連れ合いも同じで、iPodの小さな文字をじっと見つめているうちに酔ってしまったらしい。本を読んでいる時は視線は動いていて、1点を見つめていない。

 船旅は快適だった。
 夕方、横浜港の大桟橋を出港後、三浦半島や房総半島を見ながら浦賀水道を抜けて外海に出る。伊豆半島と大島の間に向かうころ、レストランで夕食を摂り、ショーを見て、ラウンジのピアノとヴァイオリンの演奏を聴く居屋按揭
 夜も更けてデッキに上がると満天の星。カシオペア座、アンドロメダ座、はくちょう座、天の川を挟んでこと座のベガとわし座のアルタイルも大きい。

 伊豆半島に見える光の帯は下田か?
 石廊崎を回ると水平線のかなたに白い雲の帯が続く。おそらくは静岡・焼津あたりの町の明かりが雲に映っているのだろう。  


Posted by weetears at 10:45Comments(0)牛欄牌

2013年07月12日

空は青いし



風がすごく強くて
飛ばされそうな時もありましたが

空は青いし
コースはよいし


キャディーさんは笑顔がステキで
キビキビ仕事してくれるし

(でもお互いお菓子の食べすぎには注意しましょうね…)

食事も美味しいし

(完全自画自賛??)

スコアはともかく
楽しくプレーできました


西6番の手前の桜。
奥に見えるのが平尾CCクラブハウスです!  


Posted by weetears at 17:52Comments(0)牛欄牌